ここから地下壕に移った、南風原陸軍病院の壮絶な闘いが幕を開ける。換気のないジメジメとした地下壕での診療。日光が入らず、すぐにカビが生える。食事も壕内では作れずに、はるか下の炊事場まで行って作る。もちろん外に出れば、すぐに米軍機の機銃掃射の餌食となる。飯上げの道は命がけだったのである。
戦況が悪化するにつれ、次から次にと負傷兵がひっきりなしに運び込まれる。ついには壕からはみ出した。壕内では激痛を訴えるうめき声や、軍医や看護婦に助けを求める叫び声。吐物や排泄物の悪臭。そして傷口や飛び出した内臓、切り落とした手足が腐っていく異臭。壕内には地獄絵図が広がっている。
医療器材も包帯も薬品も次第に底をついていった。そんな中、軍医も看護婦も果敢に活動した。さらに沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237名が看護補助要員として動員された。後になって「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる。彼女らも命がけで最期まで闘った。
第一外科壕の中の「手術室」と壁に書かれた、形ばかりの小部屋では、毎日何例も、腐りはじめた手や足の切断手術が麻酔なしで行われた。そのたびに、激痛の叫び声、骨を切るノコギリの音が壕内にこだました。消毒も十分に出来ないから、傷口にすぐウジ虫がわく。夜になると遠く発電機の低い音に混じり、近くでウジ虫が傷口をかじる「カサ、カサ」という音があちこちで聞こえた。
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