092孝子は女学校を卒業して東京の衣料品会社「ユースーツ」で働くようになった。次女昭子も東京で働いた。三女の清子は高等師範に進み小学校の教師として暮らしを支えた。弟正隆は昔から手先が器用だったため、それを活かしてサンヨー電機店を立ち上げた。当時のラジオは真空管式で正隆には修理はお手の物だった。092一族の昭和の黎明期である。戦後の混乱を乗り越え、少しずつ電化製品も売れるようになっていく。
正隆はお客さんのために早く修理してあげようと、時には部品を自分で秋葉原まで買いに行ったりして客から非常に感謝されていた。その人柄と実績から後には小学校の電気設備メンテナンスや地区の夏祭りの電気配線まで任されるようになった。自治会長としての仕事も忙しく、早朝から通学時の交通整理、昼は小学校の電気設備メンテナンス。夜は拍子木を鳴らして「火の用心」「夜巡り」をこなしていた。
それまでGHQにより禁止されていたテレビの研究が再開されて、1952年ごろから販売されはじめていく。サンヨー電機はその先駆けだった。電機店ではカラーテレビのサンヨー「薔薇シリーズ」を何台も展示。高価ながらも東京オリンピックも重なり富裕層が購入を始めた。そんな中、092孝子に縁談の話が持ち上がったのである。話を持って来たのはなぜか叔母の幸子。夫は信州の高等学校の校長をしていた。
その学校の教員達雄を紹介したのである。1957年の晩夏である。そして翌年1958年入籍。戦後の混乱期を過ごした大宮から、長野県松本市御徒町に移り住んだのである。松本といえば松本城の城下町。標高が高く空気の澄んだ美しい街である。東には美ヶ原、西には北アルプス、南には南アルプスと、四方を山々に囲まれた自然ゆたかな地だった。
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