その部屋は直射日光を遮断する地下にあった。とびらを開けると、かすかにホルマリン臭が漂う。ガラス瓶に密閉していても多少は気化するらしい。ホルマリン漬けにされていたのは何十体ものクスリ漬け年金生活者。各ガラス瓶に1体ずつ彼らの心臓が保存されていた。もう動いていない。標本番号と採取年月日、年齢、性別が記入されたラベルも一緒に漬けられていた。ここで取り出された心臓だ。
ホルマリン漬けにされた心臓で正常と思える形をしたものはなかった。年金生活者は心臓の病気が原因で旅立ったからだ。それぞれの心臓を見ると、彼らクスリ漬け年金生活者のいきざまが脳裏をかすめる。心肥大の心臓がある。巨大化した心臓は長い間、心不全と闘ったあとなのか。ベッドから起き上がるだけでも息切れがして苦しかったであろう。心筋までもが肥大してしまっている。
心臓本体に何か所も手術痕や縫ったあとがあり、黒い糸がまだ残っている。止血しながら必死で縫った糸だ。開心術を施した心臓なのだ。弁置換か弁輪形成か。あるいはベントールか。グラフトで弓部置換をした心臓もあった。A型大動脈解離はほとんどが緊急手術となる。3枝もグラフトなら脳灌流も必要だから、皆必死で手術をしたはずだ。人工心肺を用いた壮絶な時間との闘いである。
緊迫した手術場の状況が想像出来る。送血管の挿入、脱血管の挿入、そして、なんと9Vの四角い市販の乾電池で心臓を止める。それまでのBGMがとめられ緊張感に包まれる。日本光電のハートモニターの心音だけがオペ室に響く。やがて心波形がフラットになり、心音も停止。心臓が止まる。クランプをかける。大動脈遮断。麻酔医は遮断時間をカウントし始める。人工心肺の出番である。MEが人工心肺に張り付く。執刀医も熱くなって大声を出す。
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