それでは、JAL123便の事故責任は誰にあるのか?航空事故調査委員会の報告によると、事故機(機体登録JA8119)は1978年6月2日に、大阪空港でしりもち事故を起こしている。このときはJAL115便として羽田から大阪空港(伊丹)に向かっていた。当時は副操縦士(36)が着陸時操縦していた。
JAL115便は伊丹空港滑走路32Lへ、ILS(計器着陸装置)による滑走路進入を実施して着陸を試みた。着陸時、最初の接地でバウンス(跳ね上がり)が発生。機体はバルーニング現象により一時制御を失う。ただちに副操縦士は、回復操作としてフレア(着陸直前の機首上げ動作)を行った。
ところがこのフレア動作が大きすぎてしまい、二度目の接地時に機体後部(尾部)が激しく滑走路面に接触してしまったのだ。この時、事故機は機体後部の圧力隔壁を損傷した。機体はボーイング社のシアトル工場に運ばれて、圧力隔壁の修理が行われた。しかし、この修理が不適切なものだった。
設計図では二重列リベットで補強するべきところを、一列で留める誤った施工を実施。そのため隔壁に集中応力がかかり、疲労亀裂が進行して1985年に破断した。事故調査委員会は、原因はボーイング社の修理方法の不適合と明確に結論付た。日本航空側にも修理後の点検・検査で異常を発見できなかった点で、監督責任が問われたのだ。

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