年金生活者と10.10空襲

ブレイキング

その時クスリ漬け年金生活者は見た。朝6時30分ころか。轟音に眼を醒まし外に出て空を見上げる。台風後の晴れた夜明けの空に何百機ものグラマンが、陸軍北飛行場のある読谷めざして、首里の山中から次から次にと現れる。尾翼に朝陽を反射させてまぶしい。空一面が真っ黒になるほどの機体数だ。迎撃するはずの日本軍機はまだ来ない。遠くで対空砲火の音が散発的に聞こえる程度だ。

その直後だ。もの凄い爆撃音とともに大地が揺れた。爆撃音の振動が伝わりガラス戸はガタガタ震える。それも一度や二度ではない。何十回、いや何百回と続く。大地は揺れ続ける。終わりが来ない。炎までは見えないが読谷の空は真っ黒になっていた。約2時間後には小禄の飛行場が標的となった。しかしこのあと、アメリカの第3艦隊高速空母部隊第38任務部隊には恐るべき攻撃の計画があったのだ。それは那覇市全域の壊滅である。

米軍は飛行場港湾施設を壊滅させると、計画とおり那覇市全域壊滅目標に設定。9時間にわたる波状攻撃グラマンコルセアなどの新鋭戦闘機から次々と焼夷弾ロケット弾を投下。那覇は全域が火の海となり、焼けただれた人々逃げ惑う人々で、まるで地獄絵図。さらに米軍は逃げ惑う民間人を機銃掃射で無差別に容赦なく殺傷した。

米軍戦闘機1396機飛来。投下した爆弾541トン死者668名。これでは那覇はひとたまりもない。3日3晩燃え続け90%が火災で焼失して壊滅クスリ漬け年金生活者は果たして生き延びたのか。父親におんぶされて、着の身着のまま末吉から安謝川沿いにさかのぼり、なんとか那覇を脱出。南風原国民学校(後の南風原陸軍病院)に身を寄せて命をつないだ。

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