穴に落ちた研修医

セイシンカ

私の目の前で穴に落ちてしまった研修医も知っている。助けようがなかった。患者は勇二18歳。彼は精神分裂病(当時の病名)と発達障害で入院していた。小学校を出たのかどうか、入院までの経緯はわからない。明るいし、よく話す。腕がへんなところで曲がっていて、歩き方もおかしい。いつも独り言を楽しそうにつぶやいている。単純なせいか、スタッフのアイドル的存在であった。

スタッフの手伝いもよくしてくれる。素直だ。性格もいい。だからか、よくほかの患者からいじめられている。スタッフが仲裁に入るのだが、いつも物を取られたり、食べ物を食べられたりと、ちょっと可哀そうな存在だった。でも泣かない。突然を唄い出すのだ。

「勇二、なんでを唄うの?」と聞くと、「だって、お姉ちゃんがつらい時は泣かないで、を唄いなさいって。そしていいことだから、もっともっとを唄いなさいって」姉に言われたことを、けなげに守っている弟だった。それしか、なかったのかもしれない。

そんな勇二を心配して姉は週1~2回は面会に来ていた。スラッとして美人な姉だったが、なぜか独身だった。当時の風潮なら「身内に精神病患者がいるならもう結婚できない」というのもあったのかもしれない。 その姉と大学病院から派遣された若い研修医とが、出会ってしまったのである。研修医は初めてで、熱意に燃えているから、患者を理解しようと勇二の世界へ、どんどんと足を踏み込んでしまった。そして戻れなくなってしまったのである。

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