穴に落ちてごらん

セイシンカ

こちらが手を滑らさなくても、中を覗き込んでいる時に、相手が近くまで来て中に引きずり込むかもしれない。こんな危険な職場では、怖くて働けない。ここに配属されたら、最初みんなそう思うという。でもある先輩が言っていた。「怖がらないで一度ほら穴に落ちてごらん。想像もしたことのなかった晴らしい世界が広がっているから」

「でもあんまり深いほら穴には落ちないでよ。戻って来れなくなるから」彼も知っていたのだ。その怖さを。私は戻って来れなくなった先輩を知っている。あまりにもほら穴の世界が素晴らし過ぎて、魅了され、気づいたときには、考えていることが全てむこうの世界のことだけになってしまい、現実世界に戻ることが出来なくなってしまったのだ。

彼は現実世界で働けなくなってしまい病院をやめた。上司と精神科医が必死に止めたが聞かなかった。やがて妻子にも見放され離婚した。今は食っていくために、焼き場の焼却室にいる。先月、義父を焼却したときに会った。しかし会ったのは私だけ。彼は反応することもなかった。そう彼の心はまだほら穴の底にあるので、外界が見えていないのだ。抜け殻のようだった。ただ少し太っていた。いつもの笑顔もなかった。

昭和の時代の精神科閉鎖病棟はこんなところ。非現実的で限りなくファンタジーな世界が広がっているが、その世界に魅了されると、戻れなくなる危険もあるっていうこと。でもほら穴の世界はとっても素晴らしい世界だから、落ちたら落ちたで、無理して戻らなくていいと思う。

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