2023年11月時の内閣岸田政権の支持率は30%を下回り危機的状況にあった。しかし離脱した092幽体は1945年葫蘆島(ロコ島)に向かう貨車の中にあった。屋根のない貨車に、足の踏み場もないほどの引揚者が荷物を抱いてうずくまる。泣き叫ぶ幼子もたくさんいる。この蒸気機関車に乗るまでがたいへんだった。スターリン率いるソビエトは8月15日の終戦後も戦闘をやめない。日本人は着の身着のまま帰国のためにソ連兵から逃げ惑い駅に殺到。機関車に乗る順番を待った。
女性はソ連兵を恐れ皆断髪し男性のような恰好をしていた。持ち物は一人リュック1個と手荷物のみに制限。貴金属類は一切禁止。さらに風景の映った写真は全て没収された。GHQの方針で海外にいる日本人は全て引揚げが指示されたのだ。1945年9月舞鶴港が引揚げ港に指定。米艦艇も動員され、1958年9月の最終引揚げ船までに346隻が入港。66万2982人が上陸した。
「孝子の手を離すな!満人にさらわれる!」父の正が母恵美子に大声で叫んでいる。もの凄い人込みだ。葫蘆島に着いてからも乗船の順番を待つために、古い学校の教室に寝泊まりさせられた。9月の満州はもう寒い。氷も張る。トイレも校庭の真ん中に一か所のみ。汚くてとても入れたものではない。食べ物もろくに配給されなかったから、出るものも出なくてちょうど良かったのかもしれない。
やがて乗船の順番が来た。幼子を何名も連れていたので優先されたのかもしれない。船は民間の古い貨物船だった。乗船前に背中あわせに2列に並ばされて、なんと頭からDDTをかけられた。ノミ・シラミを駆除するためだが、ひどいやり方だ。皆咳き込んでいる。肺の中まで消毒するつもりか。あまりにも念の入ったやり方だ。引揚げ船の船長石丸寛治は胸中おだやかではなかった。
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